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地元の銭湯がひとつ消えた話

1年半前の記事です。なぜか削除していたので復活させました。

アイロンをかけているときに、青が消えた。そのときアイロンをかけていたのはたまたま青とオレンジのストライプのシャツだったので、青が消えたことに「僕」はすぐに気づいた。

書斎に行って、ガールフレンドとハワイに旅行したときの写真アルバムを出してみたが、そこにはもう青い海の姿はなかった。僕らの背景にあるのは、まるでシベリアの氷原のような茫漠とした白い広野だった。それに対してどう対処すればいいのか、見当もつかなった。そしてそれは1999年の大晦日の夜だった。新しいミレニアムを迎える記念すべき夜だった。別れたガールフレンドのアパートに電話をかけたが、彼女は取り合わず、文句を言い、電話を切った。

「僕」は家を出てまっすぐにブルーラインの地下鉄の駅まで行ってみた。ブルーラインは何もかもがブルーでできている。しかし今では白い電車が白い壁の中を走り、白い制服を着た駅員が白い切符を売っていた。それは「僕」に古い記録映画で見たスターリングラードの冬季攻防戦を思い出させた。

もう何年前だろうか。国語の教科書で読んだ。
村上春樹の「青が消える」。

自分では当たり前の日常だったものがいつの間にかひっそりと消えてしまい、でもそのことに誰も気づいていない。ミレニアム(西暦2000年を迎えること)のおめでたい雰囲気、絢爛で浮ついた世の中とは逆に、むしろ自分の気持ちは沈んでいく。<青が消える>ということに、私は動揺を隠せない。

そういった話だったように記憶している。

先日、近所の銭湯が閉店した。以前からそんな気はしていた。その銭湯には「ご近所の銭湯リスト」が書いたポスターが張ってあって、番台さんの顔、電話番号や住所が載っていた。けれども、そのうちいくつかには、サインペンで「廃業」と書いてあった。いつか、この銭湯もなくなっちゃうのかなぁ。そんな気はしていた。

ようやくその日が来てしまったので、最後のひと風呂を浴びにいった。いつもの銭湯、いつものサウナ、いつもの水風呂。それがすごく儚かった。番頭さんに何か言おうと思った。でも言えなかった。何か、特別なことを言ってしまうと、いつもの銭湯じゃなくなってしまうような気がしたからだ。

いつものように引き戸を開けて空を見上げると、夕焼けがきれいだった。

それでも、僕は悲しかった。

あの銭湯は、僕が大好きな場所だったから。

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